諏訪森だより

特定非営利活動法人浜寺諏訪森を考える会

まちの生い立ち

1. 古代から人々が住んでいた地域

古代の大阪府堺市西区浜寺諏訪森町は どんなところだったのでしょう。宇宙から見た大阪湾は陸地と淡路島に囲まれた広い水域です。そこは茅渟の海とよばれて、魚が沢山いた海でした。東側は淀川 沿いに大阪平野が広がっていますが、8000年ほど前には水域が東に深くに入り込んでいたそうで、河内湾と名付けられています。

河内湾は上町台地と生駒山脈の間に広がり、北は枚方、南は八尾のあたりに及んでいました。琵琶湖から淀川を通って大阪湾に注ぐ水と、奈良盆地から大和川を通ってくる水が、大量の土石を運んできますので、河内湾は次第に埋められてゆきます。西風が強い大阪湾では流出する土砂が北に押し返されて半島状の上町台地は北に延び、湾の入り口を狭めて行きます。

弥生時代の後期、1800年ほど前になると、河内湾は河内湖となり、淡水湖に変わります。河内湖の周辺には石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡が沢山見つかっています。上町台地の南側には桑津、遠里小野、三国丘、四つ池、池上曽根などの遺跡があり、古墳時代の遺跡には仁徳陵や履中陵、応神陵などの大型の古墳が存在しています

3. 南海鉄道の開通

明治の初めまでは、地域の交通としては、街道を歩くか沿岸に沿って船で荷物を運搬することが行われていました。大阪から堺を通り南に向かう街道筋は、紀州街道と熊野街道がありました。紀州街道は紀州の殿様の参勤交代の道であり、熊野街道は古くからの熊野詣での道筋でした。村の人たちの日常の行動範囲は堺までで、街道筋もそんなに賑やかではなく、明治の頃でも紀州街道などは寂しい道だったと伝えられています。

明治6年に浜寺公園が公立公園に指定されてから、少しづつ来訪者が増え始めました。鉄道の建設は、最初は阪堺鉄道が明治17に設立されて、明治21年に難 波から堺の吾妻橋までが開通しました。さらに、南海鉄道が明治30年に堺から泉佐野までの運行を開始し、その後、南海鉄道と阪堺鉄道の合併をへて明治36 年に難波から和歌山市までの全線が開通しました。

明治30年に浜寺停車場が開業しました。このあたりでは、鉄道は海沿いの紀州街道の近くをとおていますが、古くからある村落からは随分離れたところを通る ように計画されましので、住民の利用は少なかったのですが、保養地としてここを訪れる人が増えてきました。やがて、浜寺公園内には、料亭や公会堂などの施 設が作られ、また、別荘が建てられて、リゾート地として注目を集めました。

海岸の空気はオゾンを多く含み医療効果があるというので、明治30年には大きな療養施設も出来ました。また、明治38年の日露戦争時には高師浜の南にロシ アの捕虜収容所が設けられ、見物人が大勢訪れたそうです。明治39年からは夏になると海水浴場が開場し、近畿一円から大勢の人々が海水浴にやってきました。浜寺停車場の利用客が増え、明治40年に難波・浜寺間の複線化と電化が完成しました。また、新しい駅舎が建設され駅名も浜寺公園駅と改称されました、

明治40年には、浜寺公園駅から1kmほど北側に北浜寺駅が開業しました。この駅は翌年諏訪ノ森駅と改称されました。 諏訪ノ森駅の東に諏訪神社の森があることから、地元が要望して駅名を諏訪ノ森駅としましたが、その当時の地名は広域には浜寺町であり、諏訪ノ森駅の付近は 下石津と船尾の村名が大字として残っていました。

新しく駅が設置されて、駅の周辺や、海岸寄りに別荘や邸宅が建ち始めましたので、この地域を諏訪森と呼ぶようになりましたが、公式には下石津や船尾の一部 になっていました。昭和17年に浜寺町が堺市に合併された時に、新しい町名が出来て、始めて浜寺諏訪森町という呼び方が公式に使われるようになりました。

4. まちの発展を支えてきた諏訪ノ森駅

明治40年に出来た駅に関する記録はありませんが、六角屋根のかわいらしい駅だったと伝えられています。当時の駅の位置は浜寺村役場、や浜寺小学校の西側でしたが、大正8年に新しい駅舎が建設され、駅の場所は南に200メートルほど移動して、現在の位置になりました。

今の駅前商店街はこの新しい駅が出来てから店開きしたものです。昭和4年に浜寺町役場が新築され、駅周辺は生活に便利なところということで住宅や店舗が増えました。

ステンドグラス

新しく出来た駅は、木造・スレート葺きの平屋建築で、駅舎面積は48㎡の小さい駅舎ですが、諏訪森の玄関口として90年間まちの人々に親しまれてきました。

この駅舎ができた頃は、乗降客も少なく車両も短かったので、プラットフォームもこぢんまりとしていました。昭和17年頃に撮影した写真が残っています。こ の風景は大正8年頃とそんなに変わっていないだろうと思います。左に現在の駅舎が見えます。プラットフォームの屋根は後年になって改装されています。そこ には木製の作り付けベンチがあり、引き伸ばして見ると電車を待っている和服の女性が写っています。

昭和30年代になると人口が増えて、プラット フォームの幅も広くなり、長さも延長されました。下り線のプラットフォームはこの写真のように上り線と並んでいたのですが、すぐ裏に道路があって拡張の余地がなかったので、踏切を挟んだ 北側に移動して広いプラットフォームが作られました。そのために、今の駅は上りと下りのプラットフォームが随分離れていますが、最初からこんな変な事になっていたのではありません。当時のプラットフォームの高さは今よりも低かったのですが、車両の形が変わってバリアフリーになる段階で数回かさ上げされました。プラットフォームをよく見ると、このような変遷の跡が残されています。

終戦後間もない昭和22年から昭和33年頃まで、浜寺公園がアメリカの進駐軍に接収されて海水浴場が開けなかった時期がありました。この期間は諏訪森海岸 で海水浴場が開催されて、諏訪ノ森駅がその玄関口になりました。急に乗降客が増えたので、夏には臨時のプラットフォームが踏切の北側に作られました。

南海電気鉄道 諏訪ノ森駅

所在地 大阪府西区浜寺諏訪森町
開業 明治40年12月20日
現駅舎の竣工 大正8年6月10日

難波駅から和歌山市駅に至る南海本線の、難波駅から13.8kmの地点にあり、急行は停車しません。難波駅から急行で堺駅まで行き、普通列車に乗り換えて諏訪ノ森駅に16分で到着します。駅周辺地域は浜寺諏訪森町、浜寺船尾町と浜寺石津町の一部で、通学校区は浜寺小学校、浜寺東小学校、浜寺中学校、浜寺南中学校になっています。 地域全域が閑静な住宅地で、駅前商店街の他にスーパーマーケットが三軒あります。

有形文化財のパネル この駅の駅舎は平成10年に国の登録有形文化財に指定されました。また、『残しておきたい駅舎百選』や『近畿の駅百選』などに選ばれています。

天井のランプ 改札口前の空間は、欧風デザインの影響を受けた大正ロマンを感じさせるたたずまいを持っています。天井のランプシェードはシンプルで奥ゆかしく、片隅に作られた木製のベンチは二人がゆったりと座れる広さで、待ち合わせの場所に最適です。窓枠と柱のデザインの調和が落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 ベンチ

大阪湾とその周辺の移り変わり

現在の大阪湾

google mapで見た大阪湾。A点は大阪府堺市西区浜寺諏訪森町の位置を示す。

7000年前の大阪湾

7000年から8000年前の縄文時代前期の大阪湾では、上町台地の東に河内湾が生駒山脈の麓まで広がっていた。図はURBAN KUBOTA No.16 October 1978, page 8, 図8を参照して作成。

1800年前の大阪湾

1800年ほど前には上町台地が北に延びて河内湾から大阪湾への流出口が狭くなり、淡水湖になった。河内湖周辺では、赤印が示すように、多くの遺跡が発見されている。図はURBAN KUBOTA No.16, October 1978, Page 14 図16から作成。

南海鉄道の古いSL

南海鉄道が開通した頃の蒸気機関車。

浜寺村の海岸沿いに建設された南海鉄道

諏訪ノ森駅が開業した頃の浜寺町の地図。
村の周辺には田畑が広がり、浜寺公園駅や諏訪ノ森駅の周辺にはほとんど住宅や店舗はなかった。中央部に浜寺小学校があり、そのすぐ北に諏訪神社があった。諏訪ノ森駅の位置は現在の場所より北寄りに画かれている。

昭和17年頃の諏訪ノ森駅

昭和17年頃の諏訪ノ森駅を南から見た写真。中央左が現存する駅舎で、プラットフームの屋根は後年に改築されている。右側は下り駅プラットフォームで、上り駅と対向していた。

諏訪森海岸

諏訪ノ森駅の西400mのところに堤防があり、その先には砂浜が広がっていた。その付近には漁師小屋があり、網を干したり魚の干物を作っていた。砂浜には漁から帰ってきた伝馬船が引き揚げられている。緑の海原の先には六甲。摩耶山系と須磨明石の海岸を望み、左手には淡路島が浮かんでいた。茅渟の海が一望出来るきれいな浜辺だった。 諏訪ノ森駅の正面

正面から見た諏訪ノ森駅。 三角屋根の下にステンドグラスが飾り付けられています。そこに画かれているいのは、白砂青松の浜寺海岸で、砂浜と松、伝馬船と人影、波間に浮かぶ帆掛け船、遠くには淡路島が見えます。高度成長期に失われた美しい日本の風景が残されています。

夜の諏訪ノ森駅

夜の諏訪ノ森駅もステンドグラスが輝いて見えます。中央にある小さな照明が大正ロマンの象徴です。