特定非営利活動法人浜寺諏訪森を考える会
「四ッ池」(現在、浜寺中学校があるあたり)に人々が住み始めたと考えられます。それは「四ッ池遺跡」を発掘して調べているうちにわかってきました。人々は、船尾丘陵の先端付近-浜寺中学校がたてられているあたりで「たて穴住居」に住み、雨水を流す「みぞ」をたくさんつくっていました。その外がわの低い所に「おはか」の場所もつくられていました。
そのころ使われていた土器も発掘され、人々のくらしのようすを知る手がかりになっています。人々は海で魚をとったり、石津川に沿った低い土地で米をつくり、丘陵地では狩をしてくらしていたと考えられています。そして「四ッ池」の村を中心にして、そのまわりに、しだいに村がつくられていったと考えられています。
旧堺は、徳川幕府の領地で堺奉行が治めていました。堺のまわりや近くの北庄・中筋・舳松・湊・上石津・船尾・下・大鳥・野代・長承寺・上・原田・菱木と船堂・下石津村の一部が蔵入地といって年貢を堺奉行におさめ、江戸へ送られていました。江戸時代の終わりごろ、今の浜寺付近は「田安家」(八代将軍吉宗の次男)の領地でした。わたしたちの校区を通っている紀州街道は、大阪―堺―和歌山をつなぐ道路です。
江戸時代、和歌山は紀州といわれていました。紀州の殿様が参勤交代のときに通った道で物を運ぶ上でも重要な道路でした。船尾の人々にとっても、堺方面へ出る重要な街道で、石津川を中心に南北18丁(36丁が1里、1里は約4㎞)の松並木になっていたそうです。昼間は美しいながめの街道だったようですが、夜になるととても歩けないようなさみしい街道で今の三光会館は、当時は墓地でしたのでいっそうさみしさをましたのだと思います。この墓地は船尾の今池の横に移転されました。
明治元年 | 堺県 |
明治5年 | 堺県和泉国 |
明治11年 | 堺県大鳥郡 |
明治14年 | 大阪府大鳥郡(堺県が大阪府に合併) |
明治22年 | 大阪府大鳥郡浜寺村(下石津村、船尾村、下村が合併して浜寺村に) |
明治29年 | 大阪府泉北郡浜寺村(大鳥郡と泉北郡が合併) |
大正3年 | 大阪府泉北郡濱寺町 |
昭和17年 | 大阪府堺市濱寺町(濱寺町が堺市と合併) |
昭和18年 | 堺市と合併した濱寺町の町名が現在の町名に代わりました) |
明治6年 (1873) | 太政官(政府)から、浜寺の松林を公園とする許可があって、南北20丁、約48,200㎡の濱寺公園がつられ、明治10年代に小さな松が植えられました。 |
明治14年 (1881) | 堺県は廃止され、大阪府となりました。その時、濱寺公園も大阪府に帰属するようになりました。 |
明治18年 (1885) | 12月に、難波と大和川北岸を結ぶ「阪堺鉄道」が開通しました。 |
明治21年 (1888) | 3月に、大和川北岸から堺の吾妻橋の区間が開通しました。終点を「堺停車場」としました。 |
明治22年 (1889) | 町村制がしかれました。下石津村、船尾村、下村の三村が合併して「濱寺村」となりました。 |
明治28年 (1895) | 阪堺鉄道は南海鉄道となりました。南海鉄道の難波ー浜寺間が開通しました。 |
明治30年 (1897) | 南海鉄道は堺ー泉佐野間が開通しました。浜寺停車場が出来ました。 |
明治31年 (1898) | 髙野線の堺ー河内長野間が開通しました。 |
明治33年 (1900) | 髙野線の堺ー大阪間が開通しました。 |
明治39年 (1906) | 濱寺公園の海岸に毎日新聞社が「海水浴場」を開設しました。そこには、水練場も作られました。 |
明治40年 (1907) | 南海鉄道の難波ー浜寺間が複線化され、8月には電化されました。諏訪ノ森停車場が作られて、濱寺停車場は濱寺公園停車場と改称されました。 |
明治44年 (1911) | 阪堺電気鉄道は大阪「恵美須町」から堺市市之町までが開通しました。 |
明治45年 (1912) | 阪堺電気鉄道は、市之町から少林寺橋間、少林寺橋から浜寺村と宿院から大濱通りまでが開通しました。 |
大正元年 (1912) | 阪堺電気軌道・大浜通りから大浜公園までと浜寺終点までが開通しました。 |
大正3年 (1914) | 濱寺村が濱寺町となりました。 |
昭和4年 (1929) | 現在の本通り商店街が、ぼつぼつ、かたちづくられるような傾向をみせています。 |
昭和5年 (1930) | 阪和線(現在のJR)が開通しました。 浜寺土地区画整理組合ができました。昭和9年(1934)までに20万坪(約660,000㎡)の住宅地をつくりました。 |
昭和6年 (1931) | この頃、浜寺土地整理組合が「桜道」をつくり道の両側に桜の木を植えました。 戦争中(昭和16年~20年)手入れ不足や戦後、燃料不足のため切り取られてしまい、今は一本も残っていません。 |
昭和8年 (1933) | 泉北第一の名橋といわれた石津川橋ができました。大字船尾、大字下の一部の白砂青松の土地(336,600㎡)が全国最初の保健別荘地区に指定されました。 |
昭和9年 (1934) | 浜寺町となってから20年目で昭和9年5月8日浜寺公会堂で町制実施20周年記念式を行いました。この日は、昭和天皇が東宮殿下のとき浜寺へ来られ、浜寺尋常高等小学校では殿下をお迎えし、行啓記念式を行いました。 室戸台風が大阪に上陸し、多くの被害をうけました。 |
昭和12年 (1937) | 大阪和泉泉南線(大阪~泉南~和歌山)ができました。 13間のはばがあるので13号線という人が多くなりました。 |
昭和15年 (1940) | 堺市と浜寺町との合併の機運が高まり、9月から浜寺町に堺市の上水道の給水が始められました。 |
昭和16年 (1941) | 諏訪の森会館ができました。(平成21年、耐震性に問題があり解体) |
昭和17年 (1942) | 7月1日、浜寺町が堺市と合併しました。 |
昭和18年 (1943) | 堺市と合併した浜寺町の町名が変わりました。戦争がはげしくなり、造船用の木材のために、浜寺公園の松112本が切られました。 |
昭和20年 (1945) | 戦争で空しゅうがはげしくなり、堺市でいちばんはげしかったのは、7月10日午前1時半ごろから焼い弾の波状攻撃の時です。浜寺校区の焼い弾攻撃は、その日の堺市への攻撃の最後あたりで堺市の中心を空しゅうした後、海岸の漁師の家への攻撃の後、浜寺 小学校あたりを中心に焼い弾攻撃をされました。幸い浜寺小学校は無事でしたが、まわ り一帯はひどい被害を受けました。その時に浜寺校区の全焼家屋は160軒であったよう です。8月15日終戦し、占領軍が日本各地に駐留しはじめました。 |
昭和22年 (1947) | 占領軍の家族住宅地として、浜寺公園がつかわれました。この時、戦前からあった「千両の松」「羽衣の松」「三光松」などの名松も取り除かれました。公園の周囲を鉄柵で囲って「日本人立入禁止」となり、海も使用禁止になりました。海水浴も漁業もできなくなりました。 |
昭和23年 (1948) | 浜寺中学校が創立しました。 |
昭和25年 (1950) | ジェーン台風が近畿をおそい、大きな被害をうけました。 石津川付近の堤防がきれ、石津川沿いの約200戸が床下浸水しました。 |
昭和26年 (1951) | 諏訪森商店会がつくられる。 |
昭和27年 (1952) | 講和条約が発効しました。 |
昭和28年 (1953) | 浜寺の海で漁業ができるようになりました。 |
昭和30年 (1955) | 浜寺で海水浴ができるようになりました。 |
昭和33年 (1958) | 浜寺公園が占領軍から返還されました。 臨海工業地のうめ立てがはじまりました。 |
昭和35年 (1960) | 浜寺スイミングセンターが着工されました。 |
昭和36年 (1961) | 第二室戸台風が近畿を直げきし、多くの被害をうけました。 8月31日で海岸が閉鎖されました。 |
昭和37年 (1962) | 海のうめ立て工事のため、海水浴場がなくなり、プールセンターがつくられました。 |
昭和40年 (1965) | 浜寺公園に8000本の松が植えられました。 |
昭和41年 (1966) | 泉北ニュータウン造成に着工しました。 |
昭和45年 (1970) | 阪神高速道路(大阪堺線)ができました。 |
昭和46年 (1971) | 泉北高速鉄道が開通しました。 |
昭和49年 (1974) | 第二阪和国道ができました。(3月) 四ツ池遺跡の発掘がすすみました。 |
昭和63年 (1988) | 諏訪森西に諏訪森会館ができました。 |
明治37年(1904)までは、年間乗降客は10万人程度でしたが、明治39年(1906)に浜寺海水浴場が開設されると大阪方面から海水浴客がつめかけて、年間45万人と急に増え、明治40年以降は70万人前後になりました。
諏訪ノ森停車場は最初は北濱寺停車場と名付けられましたが、地元の意向で諏訪ノ森という名前になりました。この地域には、そのような地名はありませんでしたが、近くに諏訪神社があり神社の森のイメージで諏訪ノ森という名前になりました。
最初の駅の位置は現在の駅よりも北寄りでした。大正8年に新しい駅舎を建てるときに南に移動されました。 駅のプラットフォームは相対式で上りと下りのプラットフォームが向かい合っていました。その下りのプラットフォームの幅は3mほどしかなく、乗降客の増加とともに危険になってきましたので昭和41年に下りのプラットフォームだけを60m北に移動させ広いプラットフォームにしました。その結果、上りと下りのプラットフォームの位置がずれて、踏切をはさんだ形になりました。
このころ浜寺町では、「別荘相場」といって日用品は大阪や堺よりも3割も高かったようです。そこで浜寺公園の近くの空地に公設市場がつくられ、大正8年3月1日から毎日午前8時~12時まで一般日用品の安売りをはじめました。
流された家 | 10戸 | 床上浸水 | 611戸 |
全焼 | 3戸 | 全壊 | 18戸 |
半焼 | 2戸 | 半壊 | 51戸 |
半流出 | 7戸 |
その後、二度と大きな被害を受けないようにするために海岸に防潮堤がつくられました。
諏訪ノ森について、まず目に浮かぶのは、夏の海辺の光景です。諏訪ノ森の駅から海岸までの道路沿いに並んだ売店、砂浜にぎっしり建てられた茶店、大阪方面からの海水浴客で大変なにぎわいでした。三光川をへだてた浜寺側はひっそりと数軒の茶店があるのみでした。諏訪ノ森の海の思い出は磯の香り、波の音、やけつく砂の感触とともに今もあざやかでなつかしいものです。
西風をうけて、かろやかにまわる風車。多い時は湊から石津、浜寺にかけて約2000台もありました。このあたりは大正時代の終わりごろから葉菜(葉を食べる野菜、ホウレンソウ、ミツバなど)をつくりはじめました。そのためには十分水をやらねばなりません。ところが、このあたりは砂地なので水はすぐ砂にすいとられる上に雨の少ないところです。なんとか十分な水をやるために考え出したものです。はねがまわると、クランクがまわり下のポンプの軸が上下に動きます。それで水が井戸からくみ上げられて貯水池にたまります。これを散水たんごで作物に水をやります。
むかしから和泉は河内とならんで「もめん」のさかんなところでした。特に1790年ごろは大変さかんになってきました。もめんの布を、まっ白にしあげる仕事が「さらし」です。「石津さらし」は上石津村、市村、踞尾村-今の神石から津久野にかけての石津川ぞいのところがもっともさかんでした。
戦後は海岸北側一面、石津川の川口まで、下石津漁民の漁業基地で、漁師の網小屋がたくさん建っていました。砂浜には大小の漁舟がたくさん並んでいました。 たしか大正の頃まで、海浜砂場は波打ぎわまで200mくらいありました。夏になると、町営海水浴場が開設され、美しく清くすきとおった水辺で海水浴を楽しみ、干潮の時は、貝採りもできていました。
秋には海岸からの投釣り、波打ぎわからも、いいだこ・かれい・かっちょ・はぜなど多くの魚が水族館で見るようによく見えました。夜釣りに沖へ舟で行くと時期によって獲物はちがいますが、あなご・いか・小さば・小あじ・たち魚が百匹以上も釣れました。石津の漁師さんは大阪湾の漁業資源にめぐまれ、いろいろの漁法を使って多くの魚をとっていました。石津の「干じゃこ」は有名で、さかんなころは「和泉石津干じゃこ」として全国の市場へ出荷されていたようです
昭和16年に地元の有志の寄付金で諏訪森会館が竣工しました。1階が洋室のホール、2階には和室がありました。平成21年に耐震性に問題があるということで解体されました。旧諏訪森会館は堺市に寄付されていました。平成25年に浜寺校区自治連合会が堺市からこの土地を借り受けて、浜寺校区文化会館を建設しました。
今のように下水路ではなく、川上の農業用水の余り水が流れ、海にそそぐ手前で川はばが広くなっています。フナ・モロコ・ハゼ・ウナギ・川エビなどが釣れ、夏には川上の水路で、ホタルが飛びかう姿がみられたようです。