諏訪森だより

特定非営利活動法人浜寺諏訪森を考える会

まちの案内ー名所旧跡

1. 諏訪神社

旧船尾村の氏神で、場所は今の浜寺諏訪森東1丁65周辺地域を境内としていました。明治42年5月船尾の長老協議の結果、浜寺石津町にある「石津太神社」に一緒に祀られることになりました。船

尾では諏訪森神社遥拝(遥か遠くから拝む)のために「遥拝所」を浜寺船尾町西1丁に建てました。それから氏子は遥拝所から諏訪神社に向って遥拝し、いろいろな願い事を祈願されています。昭和25年5月に土地の有志が集まり、宮跡西北の一角に諏訪神社の社をつくりました。土地の氏神として奉仕作業しながら守っています。

現在の諏訪神社

現在の諏訪神社

浜寺船尾町の遙拝所

船尾町の遙拝所

昔の諏訪神社境内

昔の諏訪神社境内

2. 石津太(いわつた)神社

石津太神社浜寺諏訪森北隣の浜寺石津町にあり、諏訪神社の祭神が一緒に祀られています。蛭子命(ひるこのみこと)をおまつりしている神社で「やっさいほっさい」の火祭りと樹齢800年といわれる大楠は有名です。蛭子命は「えべっさん」とよばれている神さまです。拝殿も本殿も、たびたびの兵火で焼かれ、現在のものは江戸時代に建てられたようです。

毎年12月14日の夜、拝殿の前の広場に百八束のしばを積み重ねてもやす火祭り(やっさいほっさいの火祭り)が行われ、過ぎていく今年中のいろいろな悪い事がなくなってしまうように、来る年には幸せがたくさんありますようにと祈って行われます。

3. 北畠顕家供養塔

北畠顕家の供養塔南北朝時代、南朝は吉野を中心に、北朝は京都を中心にして争いました。当時、南朝として大切な港となっていた堺を北朝とうばいあうようになりました。南朝方は北畠顕家を大将として戦いました。顕家は現在の大阪市阿倍野区北畠あたりで北朝と戦いましたが敗れ、石津あたりまでしりぞき、1338年、石津ヶ原で21才の若さで戦死しました。

紀州街道の太陽橋の南に1713年に供養塔が建てられました。のちに台風で倒れこわれたままになっていました。現在の五輪塔は昭和12年に浜寺町の手で当時の工費千円で建てられたものです。

4. 諏訪ノ森駅駅舎

明治40年12月20日開業。木造平屋建て48㎡。当時この付近は船尾村でしたが、諏訪神社の広大な森があったことからこの駅名になり、さらに地名も諏訪ノ森(のち諏訪森)となりました。

諏訪ノ森駅駅舎駅舎の正面上部には珍しい和風柄のステンドグラスがはめ込まれており、ドレーパリーグラス (厚みが均一ではなく部分的な厚みの違いが色の濃淡を生み、目に映えるように効果を出す技法) で、当時の淡路島を望む諏訪ノ森海岸の風景~白砂青松~を表現。平成10年(1998)9月2日に駅舎とも国の登録有形文化財に指定されました。諏訪森を離れた多くの人が、人に優しいこの駅に今でも思いを馳せているようです。 くわしくは、駅舎のページをご覧ください。

5. 浜寺公園駅駅舎

浜寺公園駅駅舎諏訪ノ森駅から南に一つ目の駅です。浜寺(はまでら)の海岸は古くから白砂青松の名勝の地として著名でした。明治5年(1872)には、浜寺公園が造られ、明治30年(1897)には鉄道の駅が作られました。登録有形文化財に指定された駅舎は、明治40年(1907)に辰野片岡事務所で設計及び監督されたことが数々の資料から知られており、明治時代に建築された数少ない現役駅舎としても貴重な建物です。

木造、平屋建てのハーフティンバー様式、鉄板葺、建築面積249平方メートルの美しい駅舎は、浜寺公園・海水浴場などの海浜リゾート地の玄関口として、また高級住宅地の玄関口として、浜寺地域の変遷と歴史を見守ってきました。平成10年9月2日に登録有形文化財に指定されました。(堺市HPより)

三光川・三光橋・三光松跡・三光の茶屋跡

いずれも三光国師にまつわる呼び名です。他にも三光台地、三光会館などにその名が見られます。

昔の紀州街道三光橋付近

江戸時代三光茶屋

かっての三光松住宅地

戦前の三光松住宅

三光松跡

三光松の跡の碑

三光川

三光川

三光橋

三光橋

現在の三光会館

現在の三光会館

諏訪森会館 (平成21年解体)

旧諏訪森会館南海電鉄と阪堺電車の開通以後、浜寺町の人口が急増するとともに諏訪森公同会(現自治会)が、さらにゴミ処理の問題から諏訪森衛生組合が結成されていた。その後集会所設立の要望が高まり、衛生組合が主体となって町民の寄付により、昭和16年8月に会館が設立された。当初は地下室もあったが昭和27年7月の大水害により水没したため埋めもどされた。その後堺市に移管され、堺市特設公民館として館長には浜寺小学校の校長が就任した。

地名の故事来歴

町名の由来

【浜寺】

鎌倉時代から南北朝時代に生きた臨済宗の僧、孤峰覚明に後醍醐天皇が深く帰依し、覚明から戒法をうけました。この時、三光国師の号と法衣をたまわりました。後に後醍醐天皇は三光国師に命じて、大雄寺を建てられました。この大雄寺を吉野の山の寺に対して「浜の寺」と呼びました。これから、この付近を浜寺と呼ぶようになったということです。

今、浜寺公園になっている土地は、この大雄寺跡で、いつの間にか寺がつぶれてしまいました。大雄寺跡の碑が南海高師の浜線「伽羅橋」駅前にあります。

【諏訪森】

明治30年に南海鉄道が開通するまでは、このあたりは浜寺公園につづく松林で、諏訪神社の境内には松と楠がしげっていました。まるで「森」のようでした。駅名について相談をうけた村長を中心に地元の長老と相談の上、当時は浜寺村大字船尾でしたが、諏訪神社の「諏訪」と森のような地域の状況を考えて「諏訪ノ森」と駅名をつけました。

また新しくここに住むようになった人々は、駅名から付近を「諏訪ノ森」というようになりました。南海鉄道は「白砂青松、前面に静かな海と後背に金剛葛城の山なみを望見できる佳景の地」とうたって、浜寺周辺の高級住宅地の開発に乗り出しました。その後、住所表記は「諏訪森」となり、南海電鉄の駅名は「諏訪ノ森」のまま残っています。

【船尾】

この地域は諏訪ノ森駅ができるまでは船尾と呼ばれていました。船尾というのは昔神功皇后が三韓征伐の戦に勝って帰られた時、一番最後の船がこのあたりの海辺についたことから、そう呼ばれるようになったそうです。

昔の通りの呼び名

「宮前(みやまえ)通」

浜寺小学校から東へ数十メートルを左折、太陽幼稚園へ抜ける細い道。昔の諏訪神社は今の阪堺電車線路脇からこの道までに及ぶ広大な境内でした。

「栄(さかえ)通り」

紀州街道中1丁から南海本線脇の諏訪森会館跡に抜ける道。この道の道標石碑が会館の脇に立っていましたが、会館の解体時に三光会館前の空地北側に移設されました。その後浜寺校区文化会館が建設されましたので、元の場所にもどされています。

「旭(あさひ)通り」

阪堺電車船尾駅北側踏切から南海線諏訪ノ森下り駅までの道。昔は下り駅付近に踏切があり海岸まで出られたそうです。

「東雲(しののめ)通り」

諏訪森上り駅踏切から商店街を東へ10メートル進み左折、中1丁に抜ける道

「保名(やすな)道の言い伝え」

浜寺小学校・赤門前から給食場前を通り、三光川を渡って古民家店舗「遊」前の五差路を左斜め前方に南へ延びる細い道は、紀州街道よりもはるか昔、平安時代に安倍保名(あべ のやすな)という人が、後に陰陽師となる息子の安倍晴明を抱いて、晴明の母親の狐に会うために歩いた信太山に通じる道、ということで「保名道(やすなみち)」と呼ばれていました。